トップページ >> 霊桃寺の歴史、成り立ち、伊達家との関係

霊桃寺とは

霊桃寺とは時代の変遷と共に四期に渡って歴史が刻まれた寺院である。

霊桃寺の歴史

第一期 北長谷漆寺

第一期は、平安時代、東北地方に仏教の伝播を図った慈覚大師円仁に由来します。

承和5年(838)に、壇ヶ森と云う地に『北長谷漆寺』と云う天台宗の寺院が建立されました。

このお寺には、慈覚大師円仁が一刀三礼(ノミを一回入れる度に三拝をすること)して彫ったと伝わる、像高129cmの十一面観世音菩薩木仏立像が安置されました。

  • ●慈覚大師円仁略歴
  • 円仁は、下野(栃木県)の都賀郡の壬生氏の家に生まれで、9歳の時、岩舟町の大慈寺で出家しました。

  • 大同3年(808)、15歳で最澄について修行し、斎衡元年(854)、61歳の時、天台宗の第3代座主となり、貞観6年(864)に、71歳で遷化しました。

  • ●奥羽三十三番観音霊場の十八番札所
  • 十八番 胆沢前沢(霊桃寺)“いつの間に 花の筏にのりにきて 漆の寺に 駒ぞとどむる” この札所表示は、旧国道の参道わきと観音堂の前に建てられています。

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第二期 寶林山興化寺

第二期は、鎌倉仏教の影響を受けて、臨済宗へと宗旨が変わったことを契機とします。

北長谷漆寺より430年後の文永6年(1269)、鎌倉建長寺の第3世で、来朝僧の大休正念和尚(佛源禅師)を勧請開山として迎え、再興されました。寺名を『寶林山興化寺』と改め、臨済宗建長寺派に属しました。

  • 佛源禅師は中国浙江省永嘉の出身で、文永6年に日本に渡来し、鎌倉幕府第8代執権、北条時宗の帰依を受け、鎌倉に浄智寺を開いています。後、禅興寺(最明寺)に住し、壽福寺の第7世、建長寺の第3世・円覚寺の第2世となっています。正応2年(1289)11月30日に、75歳で遷化しました。

  • また、嘉元元年(1303)の冬に、天龍寺の開山夢窓疎石が奥州の白鳥郷(現、岩手県奥州市前沢区)で過ごしていますが、興化寺(現、霊桃寺)のことだろうと推測されます。

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第三期 興化山寶林寺

第三期は、前沢の領主として赴任した大内定綱が大檀越となった時代です。

天正19年(1591)、伊達政宗は大内定綱を岩城町小浜から下胆沢の領主に就封させました。定綱は慶長6年(1601)に、伊勢の宗禅泰安を興化寺の再興開山として迎え、『興化山寶林寺』と改名して菩提寺としました。

  • 定綱は、慶長15年(1610)2月に65歳で死去しました。戒名は「寶林寺殿月心光公大居士」と称し、前沢の小沢に葬られたと言われています。後に、大内家の家臣移川家は「前沢の小沢(現、前沢小学校付近)に葬られた定綱の墓参を文化年代まで訪れた」と記録にあります。更に、ここには定綱の母(佐竹大膳大夫義篤の娘・戒名を修徳院勝報妙果大姉)と妹(村松下総守久重の妻・茨城県東海村の領主)も埋葬されていると記されています。

  • 2代重綱は前沢の開田に尽力し、寛永2年(1625)には石高が200石加増されています。総石高は1,200石の地領となりました。

  • しかし、重綱は伊達家の重臣片倉小十郎の次男を殺傷するという事件を起こしたため、寛永21年(1644)に前沢から登米郡の西郡に転封となっています。大内氏の前沢統治は、定綱・重綱の2代で53年間にわたりました。

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第四期 寳林山霊桃寺

第四期は、今日の霊桃寺の基礎を確立した飯坂氏に由来します。

大内重綱が西郡に転封した後、仙台藩2代藩主伊達忠宗公の家臣、成田杢之勝が前沢の領主となりました。成田は前沢を治めること15年に及びましたが、万治2年(1659)、藩命によって上胆沢都鳥村へ所替えとなります。代わって都鳥の領主、飯坂出雲宗長が前沢に入封しました。

飯坂家16代当主宗長には男子がなく、飯坂家を継ぐ者がいませんでした。宗長が忠宗公に跡継ぎを願い出たところ、公の9男千太郎を飯坂家の嗣子とすることが認められました。

千太郎は万治元年(1658)に11才で宗長の養子となり、飯坂家17代内匠宗章として家督を相続し、翌万治2年(1659)には前沢の地に300貫(3,000石)を賜りました。

  • 飯坂家17代当主となった宗章公ですが、寛文3年(1663)、前沢への赴任の途中に病となり、16歳の若さで急逝してしまいます。采地である前沢には飯坂家の菩提寺を設けていなかったこともあり、葬儀は15代飯坂宗清が中興開基した、宮城県黒川郡大和町吉岡の香積山天皇寺で行われる予定でした。しかし、宗章公の母慶雲院や兄宗房の意向を交えて藩と協議した結果、采地前沢に埋葬されることが決まりました。藩の筆頭家老奥山大学によって、「内匠様御卒去に付遺骸をこの度前沢に下すによって、貴寺を菩提寺に申し付ける」との命が下り、寶林寺で3月25日に葬儀が執り行われました。

  • 列席した人々は、「屋形様(仙台藩4代藩主綱村公)のご名代には秋保氏が務め、一家諸氏上下十人、幼君綱村公の後見役伊達兵部宗勝と田村右京亮宗良の各名代は申すに及ばず、兄宗房名代宍戸太左衛門等伊達家の家臣の多くが参列している。御葬儀の導師は、仙台の正宗山瑞鳳寺住職定(丈)岩禅師が務め、松島より衆僧三十四・五人来訪した」といった様相で、盛大な出来事であったと言われています。

  • 宗章公の法名は「霊桃院殿心巌畫空大居士」とされ、寶林寺に丁重に葬られました。この縁によって、『興化山寶林寺』から宗章公の法名を寺号として『寶林山霊桃寺』と改名し、菩提寺となりました。

  • また、位牌供養料として、飯坂家の石高より毎年30石が納められることになるとともに、霊桃寺は藩内の寺格において、一門格に次ぐ御盃返上格に列せられました。

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